第26回演奏会

第26回演奏会

☆ルネサンス期 マドリガーレ集

最初のステージでは、16世紀から17世紀にかけてイタリアを中心としてヨーロッパ中で流行したマドリガーレと呼ばれる世俗声楽曲から、6曲を演奏します。歌われている題材は様々ですが、半音階的進行や音画的技法、朗唱的手法などを駆使し、表出力に富んだ作品となっているものが多くあり、音楽におけるルネサンスからバロックへの橋渡しをするジャンルになりました。

◆El grillo Josquin Desprez

こおろぎ (ジョスカン・デ・プレ)

ルネサンス時代最高の音楽家の一人として知られるジョスカン・デ・プレ(1440頃-1521)は、若い頃から ミラノ、ローマ、フェラーラなどで活躍し、のちにフランス国王ルイ12世の宮廷にも仕えています。

この 「こおろぎ」 が作曲されたのは、ミラノ枢機卿アスカニオ・スフォルツァに仕えていた頃(1479-1486)とされ、1箇所でしか鳴かないコオロギに自分を例えて、この曲で主人への忠誠を誓うとともに、報酬を催促したとも伝えられています。技巧的なマドリガーレというよりは、1500年前後に盛んだったフロットラ(ソプラノに主旋律のある多声世俗曲)の形式で作られています。

◆Orlandus Lassus Audite nova!

聞け、いい話を!(オルランドゥス・ラッスス)

イタリア語でオルランド・ディ・ラッソOrlando di Lassoとも呼ばれる、フランドル楽派最後の巨匠オルランドゥス・ラッスス(1532-1594)は、フランス語圏に生まれ、イタリアで音楽的経験を積み、ミュンヘンで後半生を過ごしたという生涯からも分かるように、各国語に堪能で、ヨーロッパ中に名を知られた国際人でした。様々なジャンルの曲を書き、2000曲ともいわれる作品のほとんどは生前に出版されたそうです。

ドイツ語の歌詞が付けられたこの 「聞け、いい話を!」 は、バイエルン公アルブレヒト5世の招きで1556年にミュンヘンに移った後、1573年に出版された「6つのドイツ歌曲」に含まれる曲。宗教曲のように荘厳な感じで始まりますが、本体部分は一転して軽妙なマドリガーレとなります。歌詞の内容を見てみると、何のことはない、「美味そうなガチョウが手に入ったから、これで一杯飲もう!」 という他愛のないものですが、ラッススの遊び心にあふれた楽しい曲です。

◆Dissi a l’amata mia Luca Marenzio

最愛の星に私は告げた (ルカ・マレンツィオ)

16世紀後半に活躍したマドリガーレ作曲家の代表的人物のひとり、ルカ・マレンツィオ(1553頃-1599)は、生地ブレシャで十代の頃から歌手として知られ、マントヴァ、トレント、フェッラーラ、ローマなどで活躍し、出版されたものだけでも24巻を数える多くのマドリガーレを作曲しました。音画技法、斬新な和声を駆使し、表現力に優れた彼の作品は、当時からヨーロッパ中で高く評価されており、また、後にはモンテヴェルディらに大きな影響を与えたといわれています。

本日3曲歌うマレンツィオのマドリガーレの1曲目となる 「最愛の星に私は告げた」 は、1585年にヴェネツィアで出版された、G.B.モスカーリャ(1550-87)の詩による4声のマドリガーレ曲集に含まれるもの。愛の思いを、繊細に、また物悲しく歌っています。

◆Vezzosi augelli Luca Marenzio

愛らしい小鳥たち (ルカ・マレンツィオ)

フェラーラのエステ家に仕えていた詩人 T.タッソー(1544-95)の代表作 「解放されたエルサレム」(1575)に含まれる詩文は、多くの作曲家によってマドリガーレの素材として用いられました。この 「愛らしい小鳥たち」 もそのひとつで、マレンツィオを含む複数の作曲家によって曲が付けられています。鳥のにぎやかなさえずりが、装飾的な音型で音画的に表現されており、模倣による部分と和声的部分の書き分けも巧みで、美しい対比を見せています。

◆Zeffiro torna Luca Marenzio

西風がもどり (ルカ・マレンツィオ)

14世紀イタリアの人文詩人F.ペトラルカ(1304-1374)はソネット(14行詩)の確立者として知られ、その作品もまた多くのマドリガーレ作曲家が素材として取上げています。「西風がもどり」 にも、モンテヴェルディはじめ複数の作曲家が曲を付けていますが、前半8行では、再び巡り来た春の喜び、後半6行では、愛する人を失った男の空しい心が、対照的に描かれています。 マレンツィオの曲では、音画技法と並んで簡潔で適切な書法に特長があり、歌詞が的確な音楽表現によって、てきぱきと整理され処理されています。

◆The silver swan Orlando Gibbons

銀色の白鳥 (オーランド・ギボンズ)

イギリスの作曲家オーランド・ギボンズ(1583-1625)は、ケンブリッジ・キングズ・カレッジ礼拝堂の少年聖歌隊員として音楽教育を受け、王室礼拝堂、ウエストミンスター寺院のオルガニストを務めました。鍵盤音楽で多くの曲を残したほか、荘重な宗教音楽、美しいマドリガル(≒伊語マドリガーレ)は、ルネサンスからバロックへの転換期の様式をよく示していると言われています。

この 「銀色の白鳥」 は、生前に唯一出版された世俗歌曲集の第1曲として含まれるもので、イギリス・ルネサンスの最後を飾る作曲家ギボンズの代表作として最も有名な作品です。A-B-Bの形式によっており、死ぬ前に一度だけ歌うと言われる白鳥を表すかのように、ソプラノの高い音域が強調されています。また、詩の最後には、「後に残るのは、鵞鳥(がちょう)・・・愚者」という皮肉なことばが置かれています。

☆A.M.D.G Ad majorem Dei gloriam Benjamin Britten

神の より偉大なる 栄光に (ベンジャミン・ブリテン)

20世紀イギリス最大の作曲家 ベンジャミン・ブリテン(1913-1976)は、幼少時すでに天才少年として有名でした。1930年にはロンドンの王立音楽大学に入り、大学を去ってからは映画音楽の分野でも活躍しました。1939年にはアメリカに渡り2年半滞在、1942年の帰国の船中では、「キャロルの祭典」、「聖セシリアへの賛歌」など重要な声楽作品を書いています。調性音楽を基盤に現代感覚を盛り込んだ保守的な作風で密度の高い表現を追及し、器楽曲、歌曲のほかオペラでも優れた作品を残しており、20世紀有数の作曲家とされています。

A.M.D.G. とは、イエズス会のモットー 「Ad majorem Dei gloriam 神のより偉大なる栄光に」のことで、イギリスの詩人ジェラード・マンリー・ホプキンズ(1844-1889)の手になる宗教的な詩から7編を選び、ブリテンが作曲したものです。A.M.D.G.の作曲は、1939年の夏にブリテンが米国に到着して最初のプロジェクトのひとつでしたが、何らかの事情により演奏は行われず、作曲も中断あるいは断念されたのか、作品番号も与えられないまま時間は過ぎ、全曲が初演されたのはブリテン没後の1984年、譜面が出版されたのは1989年のことでした。作曲断念の理由も、7曲セットなのかも、演奏順序も、今となっては分からないという事情がありますが、ブリテンの生涯において非常に重要な時期の作品として、近年、録音も多くなされています。

各曲は、テンポ、ダイナミクス、スタイルがそれぞれ異なっており、リズムも規則的なものから自由なものへ振幅が大きくなっているほか、音域的に演奏困難と思われる部分もしばしば見受けられ、高い演奏技術が全体を通じて要求されています。ホプキンズのテクストは神秘的・象徴的・暗示的で、難解なところも多いと言えますが、ブリテンは詩の意図を汲み取って、あるときは瞑想的な雰囲気、またあるときは激しい興奮と歓喜のうちに曲を進めていきます。

☆混声合唱のための おらしょ カクレキリシタン3つの歌 千原英喜

1549年、フランシスコ・ザビエルにより日本にキリスト教が伝えられ、長崎を中心にキリシタン文化が栄えました。しかし豊臣秀吉以後、禁教と弾圧が強まり、信徒たちは人里離れた浦々や島々に隠れ、信仰を守り続けました。その信仰は長い間に日本古来の土着の信仰と結びついた 「かくれキリシタン」 の信仰へと変容していきました。その祈りのコトバは 「おらしょ」(ラテン語の Oratio(オラツィオ)=祈祷 に由来する)と呼ばれ、本来ラテン語やポルトガル語であったものが日本語的に転訛し、独特の節回しを持っています。「おらしょ カクレキリシタン3つの歌」 は、カクレキリシタンの伝承歌と中世・ルネサンス期のキリスト教聖歌を素材に、全3楽章からなる混声合唱のための演奏会用バラードとして、現代日本の作曲家 千原英喜(ちはら・ひでき、1957- ) により作曲されました。日本の民族旋律とグレゴリオ聖歌、中世・ルネサンスのポリフォニー音楽が交錯しあう中、オラショが唱和され、幻想的な雰囲気が醸し出されます。

東西の文化が織りなすファンタジーを味わって頂くとともに、長い歴史の中で信仰に生きた人々の思いが感じられるような演奏ができれば、と思います。

◆Ⅰ

(潮騒とともに、かすかにアレルヤが聞こえる) 誰かがハイヤ節を唄っている。漁師たちの無事を願い、酒盛でも唄うその歌の切なさと寂しさ。故郷を棄て、厳しい暮らしをしながら、身の危うささえ隣り合わせの中、祈りを捧げてきた者達の心が染みる。

◆Ⅱ

「きりや れんず」が静かに唱えられ、祈りが始まる。「ぐるりよざ どみぬ」の節が重なる。≪遙か西方の国では途絶えてしまった 「O gloriosa Domina」 が、極東の島の、ごく限られたこの場所で受け継がれている奇跡≫ 「みぜれめん」「あめまりや」が声明(しょうみょう)のように拡がり、皆が「けれど(Credo)」を淀みなく御詠歌(ごえいか)のように唱え続ける。やがて祈りは高まり、ついに発せられる「あんめ いえぞす まりや」。 祈りの時は終わりを迎える。 Kyrie eleison(主よ あわれみたまえ)…。

◆Ⅲ

獅子の海辺に佇(たたず)む。祈りに身を捧げ、ここに散っていった人々のことを思う。「獅子の泣き歌」の啜り泣く節回しが胸を打つ。今なお歌い継がれる「サンジュワン様のお歌」では、「この世は辛く悲しい『涙の谷』、パライゾ(天国)が広いか狭いかはわが胸(祈り)次第」と歌っている。やがて朝日は、波を、意思を、少しずつ照らしていく。風はそよぐ、古(いにしえ)の歌とともに…。

☆無伴奏混声合唱のための 夢で逢いましょう (猪間道明 編曲)

◆ 夢で逢いましょう (永 六輔 作詞/中村八大 作曲)

◆ おさななじみ (永 六輔 作詞/中村八大 作曲)

◆ 遠くへ行きたい (永 六輔 作詞/中村八大 作曲)

◆ 明日があるさ (青島幸男 作詞/中村八大 作曲)

◆ 上を向いて歩こう (永 六輔 作詞/中村八大 作曲)

日本でテレビ放送が始まったのは、記録によると戦後復興のさなかの昭和28年(1953年)2月とのこと。はじめは街頭テレビに人だかりの状態だったのが、力道山ブームや美智子妃ブーム等でテレビは急速に家庭に普及していきました。まさしくそんな頃、日本のテレビ放送の黎明期を飾る代表的なバラエティ番組である 『夢であいましょう』 は、今からちょうど50年前の昭和36年(1961年)4月から5年間にわたりNHKから放送されました。

この番組のオープニングソングである 「夢で逢いましょう」 は詩の内容とメロディーが時代の期待感とマッチして大ヒットしました。この曲の作詞・作曲は番組の構成作家であった永六輔と音楽担当であった中村八大によるものでした。

番組では毎月1曲 「今月のうた」 が作られ、「上を向いて歩こう」 「遠くへ行きたい」 「おさななじみ」 「こんにちは赤ちゃん」 などの数々の名曲が誕生しました。なかでも 「上を向いて歩こう」 は大きな反響を呼び、数ヶ月にわたって放送され大ヒット曲になりました。これらの曲の作詞・作曲を担当したのがオープニングソングと同様に永六輔と中村八大であったことから、ヒット曲を生み出す名コンビとして 「6・8コンビ」 と呼ばれました。また、「上を向いて歩こう」 を歌った坂本九を合わせて、「6・8・9トリオ」 とも呼ばれたそうです。

NHKの 『夢であいましょう』 と同じ頃、日本初の民放である日本テレビから、坂本九主演のドラマ 『教授と次男坊』 が放送されました。坂本九が歌ったこの番組の主題歌が青島幸男作詞・中村八大作曲の 「明日があるさ」 でした。この曲も大ヒット曲となりました。

三種の神器がテレビ・冷蔵庫・洗濯機。未来は明るく豊かに便利になっていく時代に、中村八大の作りだすメロディーは、人々の心にベストマッチして、新しい時代への活力を与えていったことでしょう。その頃を知らない世代の人間としては、羨ましいかぎりです。

本日は中村八大の作品から、猪間道明編曲による5曲を演奏いたします。曲集の中には残念ながら 「こんにちは赤ちゃん」 は含まれていませんが、猪間氏編曲の 「おさななじみ」 の中には 「こんにちは赤ちゃん」 のメロディーが場面転換の効果音として使われています。 さて、どこで使われているでしょうか? ご期待ください。