・第27回演奏会

☆ルネサンス期 モテット集

ルネサンス期のモテットとは、おもに模倣の手法を中心として作曲された、(当時の教会公用語の)ラテン語によるポリフォニー宗教曲のことで、15世紀末にフランドル地方出身のジョスカン・デ・プレによってひとつの頂点を見ました。16世紀後半になるとイタリアのパレストリーナの作品に見られるような、流麗な旋律線と円滑な和声進行に特徴のあるローマ(バチカン)様式の完成に至るわけですが、地域や時代、そしてもちろん作者の違いによって、ひとくちにモテットといっても作風はさまざまであると言えます。まさに、無伴奏合唱曲の宝庫ともいえるジャンルですが、取り上げた6作品は、演奏される機会が比較的少なく、しかも特徴的な作品です。

◆Rejoice in the Lord alway Anon. (16th C. England)

主にあって常に喜べ (作者不詳)

16世紀イギリスで書かれた、この作者不詳のモテット(イギリスではアンセムと呼ばれています)は、新約聖書「ピリピ人への手紙」第4章の英文テクストに基づいています。言葉の発音ひとつひとつに音が充てられるシラビックで簡明なスタイルは、初期のイギリスのアンセムに典型的なもので、世俗曲であるマドリガルをも思わせるものです。途中に、全パートが一緒に和声的に動くホモフォニックな部分を挟んで、前半・後半はそれぞれ、各パートが追いかけあうような動きで快活に進み、最後は美しいアーメンで締めくくられます。

◆Ave Virgo sanctissima Francisco Guerrero(1528-99)

めでたし神聖なる乙女 (ゲレーロ)

ゲレーロはルネサンス・スペインの作曲家ですが、生前も死後も出版・演奏に恵まれ、その名声は同じスペイン出身の大家ビクトリアに迫るものがあります。ゲレーロは1551年から亡くなるまでセビリアの大聖堂に勤めていましたが、ヨーロッパ各地も旅行し、宗教曲・世俗曲ともに声楽曲を中心とする作品は広く知られるところとなりました。上声部2パートは全く同じ旋律をカノンで歌っているのが、この曲の特徴の一つでしょう。また、途中に「サルヴェ(Salve~)」という歌詞のところで出てくる動きは、当時の聴衆には耳に馴染みのあるグレゴリオ歌の旋律で、この美しいモテットの人気を裏付けるものとなっていたようです。

◆O vos omnes Carlo Gesualdo (c.1561-1613)

おお、すべての人々よ (ジェズアルド)

イタリアはヴェノーサ侯爵家の貴族であるジェズアルドは、不貞のかどで妻と間男を惨殺した事件でも有名ですが、作曲家としても独特で、大胆な半音階的和声を用いて劇的な表現の作品を数多く書いています。世俗曲のマドリガーレが特に有名ですが、宗教曲も相当数書いています。聖土曜日のレスポンソリウムをテクストとするこの曲もそのひとつで、痛切な内容をドラマティックに表現しています。

◆Dixit Maria Hans Leo Hassler (c.1564-1612)

マリアは言った (ハスラー)

ドイツのニュルンベルク生まれのハスラーは、イタリアに留学してヴェネツィア楽派に多くを学び、アウグスブルグのフッガー家に招かれたほか、生地やドレスデンなどで活躍しました。この曲は1591年出版の曲集に含まれるもので、聖書ルカ伝第1章38節の受胎告知の場面をテクストとして、モテットというよりも世俗様式のカンツォーナ風に書かれています。冒頭部に現れる特徴的なリズム(ターン・タン・タン)が各パートで繰り広げられ、その後はマリアの言葉が二回語られるという、まさに「おめでたい」作品となっています。

◆Jesu, dulcis memoria attrib. T.L.de Victoria (1548-1611)

イエスよ、甘き思い出は (伝 ビクトリア)

この曲は、19世紀に出版された曲集に(スペインで生まれ、イタリア・ローマなどで活躍した宗教音楽の大家である)ビクトリアの作品として掲載されているものですが、現在では、資料や作風などから見て、半世紀ほど後の別人の作品ではないかと考えられています。しかし、誰の作曲であるにせよ、宗教的恍惚を歌ったこのテクストにふさわしい、甘美で静謐な作品であることに変わりはなく、こよなく美しいものであるといえましょう。

◆Christus factus est Felice Anerio (c.1560-1614)

キリストは我らのために (アネーリオ)

ローマ生まれの作曲家フェリーチェ・アネーリオは、パレストリーナの伝統を受け継いだ作曲家兼聖職者で、パレストリーナの死後1594年には教皇庁聖歌隊付き作曲家に任じられ、数多くのミサ曲、モテット等を残しています。ちなみに、弟のジョヴァンニもローマ楽派の進歩的で多作の作曲家として知られていました。新約聖書「ピリピ人への手紙」第2章8-9節をテクストとするこの洗足木曜日の昇階唱には多くの人が作曲していますが、これもその一つです。パレストリーナ風の円滑な対位法というよりは、特に途中に挟まれる三拍子の部分に感じられるように、むしろバロックに近い作風となっているのが特徴といえます。

☆混声合唱曲集 「日本・こころのうた」より

「日本・こころのうた」は、作曲家 鈴木憲夫氏が<音楽によってほほえみを>という趣旨で2009年に発足した「音楽ほほえみ基金」の事業により、大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団(指揮:当間修一氏)の演奏でCDが作られ、CD収録の際に用いられた編曲集が、「春夏編」「秋冬編」という2冊の楽譜で出版されました。文部省唱歌に代表される、いわゆる「唱歌」の世界で歌われている風習や景色には、現在では無くなってしまったものもありますが、音楽の授業等で歌い、テレビやラジオ等で聞き親しんだ歌は多くの方々にとって良き想い出となり、また、心育むものになっているのではないでしょうか。「日本人の心の原風景(そして西洋音楽の第一歩)をもう一度振り返り、新たな描写に依って次代へ伝えることができれば、その『希求』が編曲をしつづけてきた継続の原動力だったと思います。」と、編曲に携わった当間氏は述べています。出版楽譜では全部で21曲が編曲されていますが、本日は夏・秋・冬・春の順に抜粋して演奏いたします。

【夏】

◆てるてる坊主

1921(大正10)年「少女の友」6月号掲載。作曲は中山晋平。作詩の浅原鏡村(本名:六郎)は多くの著書を残した作家ですが、この曲は彼の手がけた唯一の童謡と言われています。 (以下、編曲は特に断りのない限り、当間修一氏によるものです。)

◆ひらいたひらいた

1900(明治33)年「幼年唱歌」掲載のわらべうた。この当間氏の編曲では、琴を弾いているかのようなアンサンブルが男声で展開されます。

◆う み

1941(昭和16)年「ウタノホン(上)」所収。作曲は井上武士。戦中の歌ながら、のびのびとした大らかさがあり、林柳波の詩も3番の「ウカバシテ」が1969(昭和44)年に「うかばせて」に改められた以外は、現在も変わらず歌われています。

【秋】

◆たきび

1941(昭和16)年12月9日NHKラジオで初放送。焚き火という内容から、戦前は軍部から、戦後もGHQや消防庁からクレームがつきましたが、教科書にも採用され、永く歌われています。作詩は巽聖歌、作曲は渡辺茂。

◆庭の千草

1884(明治17)年「小学唱歌集(三)」所収。原曲はアイルランド民謡のThe Last Rose of Summer (夏の名残の薔薇)ですが、里見義の訳詩ではバラを白菊に変え、日本人好みの慎ましやかな内容になっています。

◆あの町この町

1924(大正13)年「コドモノクニ」1月号掲載。中山晋平作曲。野口雨情の詩の舞台は特定の地域ではありませんが、歌碑は野口が晩年に住んだ宇都宮市にあります。

【冬】

◆かあさんの歌

1956(昭和31)年2月発表。窪田聡が作詩作曲したこの歌は、うたごえ運動の中で全国に広まりました。歌詩は3番までありますが、鈴木憲夫氏によるこの編曲は、1番のみとなっています。

◆雪

1911(明治44)年「尋常小学唱歌(二)」掲載の文部省唱歌。「雪やこんこ」の語源は国語学者の池田弥三郎によると「雪や来う来う」であり、雪の降るのを歓迎する歌といわれています。

◆お正月

1901(明治34)年「幼稚園唱歌」掲載。子供に口語体の易しい歌を与えたいと、作詩した東くめが後輩の瀧廉太郎に相談し、作られました。

【春】

◆春が来た

1910(明治43)年「尋常小学読本唱歌」掲載。文部省唱歌は当時、著作権が未公表でしたが、戦後、高野辰之(詩)・岡野貞一(曲)というコンビの作品が多く確認され、この曲は代表作のひとつです。

◆どこかで春が

1923(大正12)年、百田宗治の詩のみ「小学男生」3月号掲載。草川信による作曲年は不詳。歌詩にある「こち(東風)」は中国の古典からの表現で、「春になって吹いてくる暖かい風」の意味です。

☆ 20世紀アメリカの合唱曲から

◇サミュエル・バーバーの作品

20世紀アメリカを代表する作曲家のひとり、サミュエル・バーバー(1910-81)は、14歳で入学したカーティス音楽院時代から、伝統的書法に基づく円熟した作風を見せていました。彼の出世作 「弦楽のためのアダージョ(作品11)」は、1937年のローマ留学時代にトスカニーニに見出され、初演されました。バリトン歌手としての訓練も受けていたバーバーは歌を愛し、交響曲・器楽曲のほかに歌曲やオペラ・合唱曲を残しています。ヨーロッパの伝統に基づく保守的な作風は、抒情性と渋さを兼ね備えたもので、今尚多くの人々から支持されています。

◆Let down the bars, O Death (Text: Emily Dickinson)

閂(かんぬき)を外せ、おお死よ

エミリー・ディキンソン(1830-86)の宗教的な詩をテクストとするこの曲は、バーバー2度目のローマ留学中である1935-6年頃の作曲と考えられます。大変に短く、また暗い感じの曲ですが、その中に込められた思いは、非常に密度の濃いものです。

◆Heaven-Haven (Text: Gerald Manley Hopkins)

天の港

イギリスの詩人ジェラード・マンリー・ホプキンズ(1844-1889)の手になる宗教的な詩に曲を付けたものには、昨年演奏したブリテンの

A.M.D.G.がありますが、この曲はその中にも含まれる詩「天の港」(副題:尼僧はベールを外す)をテクストとしています。バーバーは、ブリテンの2年前、1937年に歌曲として作曲し、後に合唱曲に編曲しました。これも短い作品ですが、修道女が死を迎える際の心境なのか、絶えることのない激しい宗教心と清澄な諦観が交錯するものとなっており、独自の世界を作っています。

◆To be Sung on the Water (Text: Louise Bogan)

水の上にて歌える

アメリカの女流詩人ルイーズ・ボーガン(1897-1970)の詩に付けた曲で、1970年頃の作と考えられます。静寂の中から呟くように聞こえる ”Beautiful, my delight” という さざ波の上で旋律が、ときに豊かに、ときに激しく歌われますが、最後にはまた静寂へと帰っていきます。曲全体を通して維持される緊張感と、心にしみ入る抒情性はバーバーならではのものがあり、美しい作品となっています。

☆アーロン・コープランド 「4つのモテット」 Four Motets Aaron Copland

バーバーと同様に、アーロン・コープランド(1900-90)も、20世紀アメリカを代表する作曲家のひとりです。ロシア(現リトアニア)系ユダヤ人としてニューヨークで生まれた彼は、米国で学んだ伝統的な作曲法に飽き足らず、ドビュッシーやスクリャービンなどに興味を抱き1921年に渡仏。丁度その時にパリ郊外フォンテーヌブローに開校したアメリカ音楽院で、名教師ナディア・ブーランジェ女史に師事し、1924年まで指導を受けました。そこで習得した非ロマン的で透明な作曲技法を持って故国に帰った後は、ジャズや民謡を取り入れアメリカ色の強い平易な作風を示し、12音技法まで開拓しました。交響曲・協奏曲・ピアノ曲のほか、バレエ音楽「ロデオ」や「アパラチアの春」などが有名で、20世紀アメリカ最大の作曲家として、バーンスタインや武満徹などにも大きな影響を与えたといわれています。

本日演奏する「4つのモテット」は、渡仏した1921年に作曲されています。ブーランジェ師のもとで習作として書いた合唱曲ですが、師はこの作品を高く評価して自身で初演したばかりか、その後も折に触れて取り上げていたようです。1979年になって、やっとこのモテットが出版されることになりましたが、全く違う手法で本領を発揮していたコープランド自身は、「学生時代の私がどんな風だったか知りたい人々はいるのだろうが、これは自分のスタイルではない…」と、この「習作」の出版を渋々承知したそうです。とはいえ、作曲者の思いとは別に、これら4つのモテットは各々特徴的なスタイルを持ち、習作とは思えない完成された魅力を放つものといえ、現在では無伴奏混声合唱の重要なレパートリーになっています。

◆Help Us, O Lord

私たちを助けて下さい、おお主よ

アルペジオ風な下降の動きを繰り返すアルトに導かれて、救いを待ち望む気持ちがソプラノで歌われます。後半には宗教的恍惚が、特徴 的な和声で語られます。旋法的なメロディが、フランス近代音楽に見られる古風な美しさを湛えた佳曲です。

◆Thou, O Jehovah, Abideth Forever

おおヤハウェよ、あなたは永遠です

冒頭のユニゾン(斉唱)が、原始主義を目覚めさせるかのように印象的です。旧約聖書の唯一神であるヤハウェ(エホバ)をほめ称える言葉が朗唱風に続くさまは、ヘブライ風でもあり、また、その野卑ともいえる迫力は、ロシアの作曲家ムソルグスキーを想起させるかも知れません。転調を何度か経て、「私たちの主 Our Savior」という言葉で頂点に達し、冒頭の音型が再現されて静かに曲は終わります。

◆Have Mercy On Us, O My Lord

私たちをあわれんで下さい、わが主よ

「ショーソンの作品のように」と作曲者自身が述べているとおり、フランス近代和声の豊かな響きに乗せて、主の憐れみをひたすらに求める祈りが、ソプラノによって切々と歌われます。その後、バスが刺すような動きで悲痛な叫びを語りますが、動きのやや速い部分を交えて展開し、最後はもとの形が再び現れて曲を閉じます。

◆Sing Ye Praises To Our King

私たちの王に向かって賛美の歌を歌え

歓喜の流れに満たされるような力強い動きと、ダンスのような軽さをあわせ持つ曲で、神への賞賛の言葉が高らかに歌われています。途中に現れる「来たりて聞け~」の部分などは、ソロのために書かれていますが、本日は合唱で演奏します。

☆無伴奏混声合唱組曲 「思い出の向う側」 なかにしあかね 作曲

なかにしあかね氏は、兵庫県西宮市出身で東京藝術大音楽学部作曲科卒業。ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ大学院にて作曲修士号、キングスカレッジ大学院にて作曲博士号を修めています。歌曲伴奏者としても国内外の音楽祭等で演奏・録音しているほか、執筆翻訳・音楽監修・コンクール審査や教育活動なども精力的に行っており、作曲以外にも幅広く活躍しています。「思い出の向う側」全5曲は1991年、「”風の旅”より」というタイトルで神奈川芸術祭第15回合唱曲作曲コンクールに佳作入選し、時期を同じくして合唱団ひぐらしによって初演されました。2009年10月の楽譜出版を機に、組曲タイトルが「思い出の向う側」と改題されました。作詩者 星野富弘の詩画は、教員だった彼が事故で手足の自由を失い、口に筆をくわえて字や草花の絵を描いたのをきっかけに生まれました。その作品は草花への優しいまなざしにあふれ、それでいて、しなやかで凛とした強さも秘めています。なかにし氏の音楽は、各曲さまざまなスタイルで書かれていますが、全体を通して、温かさと味わい深い情感、そして詩へのまっすぐな思いが感じられます。

1.たんぽぽ

たんぽぽの綿毛の飛んで行く様子が描かれています。人もまた自由になれる…。どんな時も、いくつになっても…。音楽は風のように、ゆったりと流れていきます。

2.思い出の向う側から

ひとは誰でも胸のうちに、心躍らせて走る “ひとりの少年” がいるのではないだろうか…。音楽は活き活きとしたリズムを刻んで走ってい

きます。

3.わたしは傷を持っている

風に揺れる野の草が見せる輝き。人にもまた、日々の営みの中に見せる輝きがある…。ユニゾンで始まる歌が、しみじみと深く心にしみてきます。

4.よろこびは束の間のこと

ひとは、喜びや強さだけでは生きていけない…。音楽は、ときにロシア民謡風に淡々と、ときにパストラーレ(牧歌)風に、読み聞かせるように教えてくれます。

5.むらさきつゆくさ

いちばん言いたいことや、言葉にできない何かを伝えるために、ひとは絵を描き、歌を歌うのかもしれない…。音楽はポップなメロディに乗せて、爽やかに伝えてくれます。